ある夏の金曜日。
とある会合で知り合った
親日家のユヴァル氏(超美形だが残念ながら二児の父)
に誘われました。
ユヴァル:「うちの娘たちと奥さんが海行きたいっていうから、
テルアビブまで迎えにいくよ!
海行こう!」
彼らが住むのは、
西岸とのグリーンラインのすぐ外、カルキリヤの西、
カフル・サヴァ。
そこから車で出てきてくれたユヴァル一家と共に、
一日を過ごしました。
驚いたのは、
テルアビブの繁華街が金・土曜日でもオープンしていること。
ユダヤ教の決まりでは安息日であるにも関わらず、です。
宗教的な匂いのするエルサレムで店を開けようもんなら、
正統派ユダヤ教徒たちに石を投げられること請け合いですもん。
(お陰でハリポタが土曜日に全世界同時発売されても
イスラエルの本屋では売りだせない、
なんて事件が過去にあったなぁ)
まぁそんなわけで、
お陰様で海沿いのレストランでのディナーを楽しんだ我々。
しかし車まで戻ってみると、
辺りは数台の車のアラームで騒々しい。
それを見たユヴァルが一言。
ユヴァル:「またか…」
なみ:「またかって、どういうこと?」
ユヴァル:「いや、テルアビブで車の盗難は日常茶飯事なんだよ。
だから皆セキュリティシステムを付けてるんだ。
あのアラームはシステムの作動音さ」
なみ:「そうなのね」
ユヴァル:「一度盗まれたら最後、二度と戻ってこない。
だって、やつらは西岸に持って行ってしまうからね」
あぁ、つまりそれは、
テルアビブまで出てきたパレスチナ人が車を盗んで、
西岸で売りさばいているってことなのね。
実際にそうなのか、
それともそう思われているだけなのか。
それは、まだ私には分かりません。
2009年12月7日月曜日
お金は大事?
ある日の朝のこと。
エルサレムのホステルからヘブライ大学まで通学途中、
バス停前にある食品雑貨店で、
7シェケルのペットボトルジュースを買おうと思った並木。
(1シェケル=25円くらい)
しかし、並木の手元にあったのは100シェケル札。
並木:「あのう、ちょっと大きいお金になっちゃうんだけど…」
店主のおやじ:「あぁ、いいよ。こうするから」
と言い放ったおやじ、
100シェケル札を……
破いた。
びりっと。真っ二つに。
並木:「………。」
口をあんぐり開けてぽかんとしている並木を見て、
おやじはハッハッハと笑いながら言い放ちました。
おやじ:「まぁまぁ。所詮紙なんだから~。」
そう言いながら、セロハンテープを紙幣にペタリ。
いや、そりゃ紙だけど。
しかし、破るとはいかないまでも、
中東のお金は概して使い込まれたヘロヘロのお札が多いと思う。
まるで布のよう。
そしてメモ書きや千切れがあるのも当たり前。
「おいおい、もっと大事にせいよ」と突っ込みたくなります。
ちなみにこれがエジプトの25ピアストル札。
誰ですか、「100」なんて書きこんだの。

ちなみにパレスチナ自治区で流通しているシェケルは、
イスラエルの通貨です。
でも西岸ではヨルダンのディナールも使えたりします。
以前、西岸はヨルダンの支配下にあったからです。
(だから「ヨルダン川」の「西岸」って呼ぶんだよね)
両替所の人にお金について聞いてみた。
なみ:「シェケルとディナール、どっちがマシ?」
返ってきたのはこんな答え。
「そりゃぁ、シェケルは嫌いさ。イスラエルの金だ。
ディナールも好かないね。
ヨルダンだってイスラエルと似たようなもんさ。
でも、贈答用にはディナールが人気だよ。
アラブだから、まだマシだと思ってるのかな。
最近はドルって手もあるらしいけど、
所詮アメリカの金だからなぁ。」
昔々は、パレスチナのコインなんてものもありました。

写真は、シリアのアンティークショップで見つけたもの。
100年くらい前の品物です。
ちなみに「お金を細かくする」という表現は、
この両替商のお兄ちゃんに教えてもらいました。
なみ:「お金を崩したい時って、qassam(分ける)って言うの?」
両替商:「それは…こうやることさ(ニヤニヤ)」
そう言って彼はお金の真ん中を二つの手でつかんで、
ビリッと切れ目を入れた!!!
またかよ!!!
両替商:「これからは『Sarraf』って言いな(笑)」
…はい。
道端が私の語学学校です。
エルサレムのホステルからヘブライ大学まで通学途中、
バス停前にある食品雑貨店で、
7シェケルのペットボトルジュースを買おうと思った並木。
(1シェケル=25円くらい)
しかし、並木の手元にあったのは100シェケル札。
並木:「あのう、ちょっと大きいお金になっちゃうんだけど…」
店主のおやじ:「あぁ、いいよ。こうするから」
と言い放ったおやじ、
100シェケル札を……
破いた。
びりっと。真っ二つに。
並木:「………。」
口をあんぐり開けてぽかんとしている並木を見て、
おやじはハッハッハと笑いながら言い放ちました。
おやじ:「まぁまぁ。所詮紙なんだから~。」
そう言いながら、セロハンテープを紙幣にペタリ。
いや、そりゃ紙だけど。
しかし、破るとはいかないまでも、
中東のお金は概して使い込まれたヘロヘロのお札が多いと思う。
まるで布のよう。
そしてメモ書きや千切れがあるのも当たり前。
「おいおい、もっと大事にせいよ」と突っ込みたくなります。
ちなみにこれがエジプトの25ピアストル札。
誰ですか、「100」なんて書きこんだの。

ちなみにパレスチナ自治区で流通しているシェケルは、
イスラエルの通貨です。
でも西岸ではヨルダンのディナールも使えたりします。
以前、西岸はヨルダンの支配下にあったからです。
(だから「ヨルダン川」の「西岸」って呼ぶんだよね)
両替所の人にお金について聞いてみた。
なみ:「シェケルとディナール、どっちがマシ?」
返ってきたのはこんな答え。
「そりゃぁ、シェケルは嫌いさ。イスラエルの金だ。
ディナールも好かないね。
ヨルダンだってイスラエルと似たようなもんさ。
でも、贈答用にはディナールが人気だよ。
アラブだから、まだマシだと思ってるのかな。
最近はドルって手もあるらしいけど、
所詮アメリカの金だからなぁ。」
昔々は、パレスチナのコインなんてものもありました。

写真は、シリアのアンティークショップで見つけたもの。
100年くらい前の品物です。
ちなみに「お金を細かくする」という表現は、
この両替商のお兄ちゃんに教えてもらいました。
なみ:「お金を崩したい時って、qassam(分ける)って言うの?」
両替商:「それは…こうやることさ(ニヤニヤ)」
そう言って彼はお金の真ん中を二つの手でつかんで、
ビリッと切れ目を入れた!!!
またかよ!!!
両替商:「これからは『Sarraf』って言いな(笑)」
…はい。
道端が私の語学学校です。
2009年10月25日日曜日
自治区に入って肝試し?
パレスチナ自治区は、オスロ合意に基づいて
主に3つの区分に分類されています。
area A、B、Cと呼ばれるそれら3つの区分は、
イ・パどちらの当局が行政・治安を担当するかが違います。
まず、A。
これは
行政⇒パレスチナ自治当局
治安⇒パレスチナ自治当局 です。
主に大都市はこの部類に入ります。
(ヘブロン協定のあるヘブロンは除く)
Bは、
行政⇒パレスチナ自治当局
治安⇒イスラエル国防省。
Cは、
行政⇒イスラエル国防省
治安⇒イスラエル国防省。
主にイスラエル人入植地がCにあたります。
それぞれの地域の入口には検問が設けられ、
パレスチナIDカードを持つパレスチナ人は、
Cに入ることはできません。
同様に、イスラエルIDカードを持つイスラエル人は
Aに入ることは許されていません。
(道路はどうなのか…というと、
西岸内では幹線道路の一部を共有しています。
でも、基本的にAに繋がる道はパレスチナ人、
Cに繋がる道はイスラエル人しか使うことができないのだそう。)
そうやってエリアが分けられている中、
検問を文字通り、巧みにすり抜けたり乗り越えたりしながら
自治区のAエリアに入ってくるイスラエル人たちもいます。
今日は、そんな人たちの話。(前置きなげぇ)
* * *
まず、よく見かけるのは平和活動家。
ビルイーン(Bil'in。ビリン、と日本では呼ばれています)や
ウンム・サルムーナ(umm salmouna、ベツレヘム付近の村)等で
壁や占領体制に反対運動を展開する人たちです。
男性も女性もいます。
その中の一人は、日本で言えばアラサーくらいの女性。
私がビルイーンでのデモを見学しに行った際に出会った彼女は、
ヨルダンでの国際イベントで再会した時に
お酒を片手にこう語りました。
「私は、家族の中に溶け込むことができないの。
私の祖母はルーマニア出身で、ホロコーストを体験したのよ。
彼女は、私に会うたびに言うの。
『なんでそんな活動をしてるんだ、やめなさい』って。
私の周りの肉親は、みんな反対してるわ。
それでも私は、これをやらなければいけない気がしているの。
やらずにいられないのよ」
他にもジャーナリストなどが西岸に入ってきますが、
私が一番驚いたのは、「肝試し学生」。
ビルイーンで仲良くなったジャーナリストのおやじ。
風呂には一週間に一度しか入らず、
穴のあいたボロボロのTシャツを着て、
ヒッピーと呼ばれるおやじ、ムヒーブ。
彼は1/4がハンガリー系ユダヤ人、
3/4がパレスチナ人だそうで、
道を歩けばイスラエル人と間違われ警戒されるような風貌。
彼とビルイーン村を訪ねた帰り、
彼の紹介で乗合バスに乗り込んできた6人くらいの若者がいました。
アラブ人ではない身なりと顔立ち。
でも外国人留学生にしては若すぎる雰囲気。
なみ:「ちょっとムヒーブ、誰よこの人たち」
ムヒーブ:「イスラエル人の学生たちさ」
彼らは「自治区内でヘブライ語を喋らないように」と
言い渡されているらしく、
互いに交わす言葉はとても少ないまま
バスの中から外を見まわしていました。
その後、ラーマッラーの中心に着いてバスを降り、
きょろきょろと辺りを見回すヒヨコのような彼らを
ムヒーブはイスラエル人ジャーナリストに引き渡していました。
彼らはこれから街のツアーを行うそう。
その後入ったマクハー(カフェ)で、
ムヒーブは水タバコを吸いながら言います。
「あいつらは、17歳かそこらの若造だよ。
肝試し感覚で、西岸に入ってくるんだ。
危ないからヘブライ語を喋るなと言っても喋るし、
危ないったらありゃしない。
過激なやつに袋叩きに遭うかもしれないじゃないか」
確かに、彼らの赤い短髪や短い袖はちょっとパンクで、
ごみごみしたラーマッラーの風景の中でさえ浮いていました。
あの時に肝試しを終えた彼らは、
今頃、イスラエルの兵役の終盤を迎えているはずです。
(兵役拒否していなければ。)
あの時、彼らは何を見、何を感じ、
イスラエルに何を持ち帰ったのかなぁ。
二回、三回と自治区を訪ね直したのかしら。
自らに貼られたレッテルを、剥がそうとしたかしら。
それとも、肝試しで終わったのかなぁ。
と、今でもたまに思う並木でした。
主に3つの区分に分類されています。
area A、B、Cと呼ばれるそれら3つの区分は、
イ・パどちらの当局が行政・治安を担当するかが違います。
まず、A。
これは
行政⇒パレスチナ自治当局
治安⇒パレスチナ自治当局 です。
主に大都市はこの部類に入ります。
(ヘブロン協定のあるヘブロンは除く)
Bは、
行政⇒パレスチナ自治当局
治安⇒イスラエル国防省。
Cは、
行政⇒イスラエル国防省
治安⇒イスラエル国防省。
主にイスラエル人入植地がCにあたります。
それぞれの地域の入口には検問が設けられ、
パレスチナIDカードを持つパレスチナ人は、
Cに入ることはできません。
同様に、イスラエルIDカードを持つイスラエル人は
Aに入ることは許されていません。
(道路はどうなのか…というと、
西岸内では幹線道路の一部を共有しています。
でも、基本的にAに繋がる道はパレスチナ人、
Cに繋がる道はイスラエル人しか使うことができないのだそう。)
そうやってエリアが分けられている中、
検問を文字通り、巧みにすり抜けたり乗り越えたりしながら
自治区のAエリアに入ってくるイスラエル人たちもいます。
今日は、そんな人たちの話。(前置きなげぇ)
* * *
まず、よく見かけるのは平和活動家。
ビルイーン(Bil'in。ビリン、と日本では呼ばれています)や
ウンム・サルムーナ(umm salmouna、ベツレヘム付近の村)等で
壁や占領体制に反対運動を展開する人たちです。
男性も女性もいます。
その中の一人は、日本で言えばアラサーくらいの女性。
私がビルイーンでのデモを見学しに行った際に出会った彼女は、
ヨルダンでの国際イベントで再会した時に
お酒を片手にこう語りました。
「私は、家族の中に溶け込むことができないの。
私の祖母はルーマニア出身で、ホロコーストを体験したのよ。
彼女は、私に会うたびに言うの。
『なんでそんな活動をしてるんだ、やめなさい』って。
私の周りの肉親は、みんな反対してるわ。
それでも私は、これをやらなければいけない気がしているの。
やらずにいられないのよ」
他にもジャーナリストなどが西岸に入ってきますが、
私が一番驚いたのは、「肝試し学生」。
ビルイーンで仲良くなったジャーナリストのおやじ。
風呂には一週間に一度しか入らず、
穴のあいたボロボロのTシャツを着て、
ヒッピーと呼ばれるおやじ、ムヒーブ。
彼は1/4がハンガリー系ユダヤ人、
3/4がパレスチナ人だそうで、
道を歩けばイスラエル人と間違われ警戒されるような風貌。
彼とビルイーン村を訪ねた帰り、
彼の紹介で乗合バスに乗り込んできた6人くらいの若者がいました。
アラブ人ではない身なりと顔立ち。
でも外国人留学生にしては若すぎる雰囲気。
なみ:「ちょっとムヒーブ、誰よこの人たち」
ムヒーブ:「イスラエル人の学生たちさ」
彼らは「自治区内でヘブライ語を喋らないように」と
言い渡されているらしく、
互いに交わす言葉はとても少ないまま
バスの中から外を見まわしていました。
その後、ラーマッラーの中心に着いてバスを降り、
きょろきょろと辺りを見回すヒヨコのような彼らを
ムヒーブはイスラエル人ジャーナリストに引き渡していました。
彼らはこれから街のツアーを行うそう。
その後入ったマクハー(カフェ)で、
ムヒーブは水タバコを吸いながら言います。
「あいつらは、17歳かそこらの若造だよ。
肝試し感覚で、西岸に入ってくるんだ。
危ないからヘブライ語を喋るなと言っても喋るし、
危ないったらありゃしない。
過激なやつに袋叩きに遭うかもしれないじゃないか」
確かに、彼らの赤い短髪や短い袖はちょっとパンクで、
ごみごみしたラーマッラーの風景の中でさえ浮いていました。
あの時に肝試しを終えた彼らは、
今頃、イスラエルの兵役の終盤を迎えているはずです。
(兵役拒否していなければ。)
あの時、彼らは何を見、何を感じ、
イスラエルに何を持ち帰ったのかなぁ。
二回、三回と自治区を訪ね直したのかしら。
自らに貼られたレッテルを、剥がそうとしたかしら。
それとも、肝試しで終わったのかなぁ。
と、今でもたまに思う並木でした。
2009年10月24日土曜日
イスラエルでフィリピン料理
西エルサレムやテルアビブを歩くと、
タイとかフィリピンっぽい女の人たちがいっぱいいます。
物価が安い東エルサレムで買い物をしている彼女たちを
見かけることも。
留学中、ふとしたきっかけで、
私は彼女たちのコミュニティにお邪魔したことがあります。
それは、2006年12月末のことです。
デンマーク人留学生ヘンリックと私は、
テルアビブのクラブで新年を迎えるドイツ人集団と合流すべく
エルサレムからテルアビブに向かっていました。
20シェケル、小1時間の乗合バスの旅です。
当時ヘブライ語の数字を覚え始めた私は、
ふとしたキッカケで隣の席のおっちゃんと英語で話し始め、
ヘブライ語で「あけましておめでとう」を教わったりしていました。
そしてさらにふとしたキッカケで、
私の口からアラビア語がポロリと出てしまったのです。
おっちゃんは私の顔をまじまじと見て、
「君、アラビア語を喋るのかい?」
なみ:「うん、ビールゼイトに住んでいるからね」
彼:「私もアラビア語を喋るんだよ!」
という訳で、おっちゃんはアラブ人でした。
ヘブライ語も英語も喋るなんて、羨ましい。
なみ:「テルアビブに何しに行くの?」
彼:「これから友人のパーティーがあるんだ。
そうだ、君達もおいでよ! きっと楽しいぞ!!」
なみ:「どうするヘンリック、行ってもいい?」
ヘンリック:「あー、俺はビールが飲めれば何でもいい…」
じゃぁ、一時間くらい寄り道していこうかな。
連れていかれた先は、
テルアビブのバスステーション近くの寂れた通り。
夜も10時となれば人通りは少なく、
ゴミやら何やらが散らかっていて怪しげな歩道。
そんな歩道に面した、人一人が通れるくらいの細いドア。
狭い通路。急な階段。
それを登ったところに、目的地はありました。
着いたところは1Kのアパートの一室。
10人くらいのアジア系の女性や子どもたちが、
クリスマス・パーティーの準備をしています。

袋からゴソゴソとカールスバーグを出しながら、
おっちゃんが言います。
「彼らはクリスチャンなんだけど、
クリスマスには休みが取れないんだ。
だからこうやって、週末や年末に集まるんだよ」
なみ:「どこの人たちなの?」
おっちゃん:「フィリピン人。あそこの男はエジプト系イスラエル人だよ」
なみ:「夫婦なの?」
おっちゃん:「あぁ、隣に座ってる女とね。
子どももいる。正式に結婚しているとは言えないけどね」
話している間にどんどん並べられていくアルミ皿には、
豚肉の入ったフィリピン料理が山盛り。
まさか、イスラエルで本場フィリピン料理を食べるなんて。
今まで外語祭でしか食べたことなかったのに。。。。

ぽかーんとしている私を笑いながら、
彼は続けます。
「彼らはね、国で働けば一月300ドルしか貰えないんだ。
でもイスラエルで働けば一月1000ドルだよ。
介護や工場の仕事をするんだ。
だから、夫や子どもを置いてここに来る。
イスラエル政府も労働ビザを簡単にくれる。
でもな、ビザは5年限りなんだ。
イスラエル政府は簡単にはビザを更新させてくれない。
君なら、5年で働くのを止めて帰るか?
仕送りが必要なんだ。だから働かなきゃいけない。
ここにいる彼らの半分は、不法労働者だよ」
「10人で1Kのアパートを借りて、シェアする。
彼らはあまり家には帰ってこられないからね。
寂しくて、こっちで新しいパートナーを見つける人もいる」
そう言ってビールに口をつけると、彼は続けます。
「俺だって、そういう話があったんだ。
俺は奴のことがとても好きだった。
きれいで、すてきなフィリピン人の女だよ。
でもなぁ、難しいんだ。簡単な話じゃない。
だから『止めよう』って言ったんだ」
乾杯の音頭。
ビールを飲んでご満悦のヘンリック。
エジプトとデンマークのハーフであるこのお兄さん、
どこに行ってもマイペースです。
(後ろにいる赤いのがおっちゃん)
皆で飲んで食べて、イス取りゲームをし、
しまいには踊りだす。
お互いの額の間にミカンを挟んで、落とさないように踊るゲーム。
おっちゃんは酔っ払って調子に乗り、
そのへんに落ちていた新品の赤いTバックショーツを
頭に被って踊り始めた。おいおい。
彼を指さして笑う女たち。
そんな中、私はちょっと所在ない気分だったのを覚えています。
だって私は、部外者ではないからです。
こうやって、
外から労働力を持ってこないと回らないイスラエル社会。
誰かの紹介を受けて遠い地へ移り、
家族と離れて毎日働き、
厳しい環境を生き抜く女の人たち。
何か、私が向き合わなければならないものを思い出しました。
タイとかフィリピンっぽい女の人たちがいっぱいいます。
物価が安い東エルサレムで買い物をしている彼女たちを
見かけることも。
留学中、ふとしたきっかけで、
私は彼女たちのコミュニティにお邪魔したことがあります。
それは、2006年12月末のことです。
デンマーク人留学生ヘンリックと私は、
テルアビブのクラブで新年を迎えるドイツ人集団と合流すべく
エルサレムからテルアビブに向かっていました。
20シェケル、小1時間の乗合バスの旅です。
当時ヘブライ語の数字を覚え始めた私は、
ふとしたキッカケで隣の席のおっちゃんと英語で話し始め、
ヘブライ語で「あけましておめでとう」を教わったりしていました。
そしてさらにふとしたキッカケで、
私の口からアラビア語がポロリと出てしまったのです。
おっちゃんは私の顔をまじまじと見て、
「君、アラビア語を喋るのかい?」
なみ:「うん、ビールゼイトに住んでいるからね」
彼:「私もアラビア語を喋るんだよ!」
という訳で、おっちゃんはアラブ人でした。
ヘブライ語も英語も喋るなんて、羨ましい。
なみ:「テルアビブに何しに行くの?」
彼:「これから友人のパーティーがあるんだ。
そうだ、君達もおいでよ! きっと楽しいぞ!!」
なみ:「どうするヘンリック、行ってもいい?」
ヘンリック:「あー、俺はビールが飲めれば何でもいい…」
じゃぁ、一時間くらい寄り道していこうかな。
連れていかれた先は、
テルアビブのバスステーション近くの寂れた通り。
夜も10時となれば人通りは少なく、
ゴミやら何やらが散らかっていて怪しげな歩道。
そんな歩道に面した、人一人が通れるくらいの細いドア。
狭い通路。急な階段。
それを登ったところに、目的地はありました。
着いたところは1Kのアパートの一室。
10人くらいのアジア系の女性や子どもたちが、
クリスマス・パーティーの準備をしています。
袋からゴソゴソとカールスバーグを出しながら、
おっちゃんが言います。
「彼らはクリスチャンなんだけど、
クリスマスには休みが取れないんだ。
だからこうやって、週末や年末に集まるんだよ」
なみ:「どこの人たちなの?」
おっちゃん:「フィリピン人。あそこの男はエジプト系イスラエル人だよ」
なみ:「夫婦なの?」
おっちゃん:「あぁ、隣に座ってる女とね。
子どももいる。正式に結婚しているとは言えないけどね」
話している間にどんどん並べられていくアルミ皿には、
豚肉の入ったフィリピン料理が山盛り。
まさか、イスラエルで本場フィリピン料理を食べるなんて。
今まで外語祭でしか食べたことなかったのに。。。。
ぽかーんとしている私を笑いながら、
彼は続けます。
「彼らはね、国で働けば一月300ドルしか貰えないんだ。
でもイスラエルで働けば一月1000ドルだよ。
介護や工場の仕事をするんだ。
だから、夫や子どもを置いてここに来る。
イスラエル政府も労働ビザを簡単にくれる。
でもな、ビザは5年限りなんだ。
イスラエル政府は簡単にはビザを更新させてくれない。
君なら、5年で働くのを止めて帰るか?
仕送りが必要なんだ。だから働かなきゃいけない。
ここにいる彼らの半分は、不法労働者だよ」
「10人で1Kのアパートを借りて、シェアする。
彼らはあまり家には帰ってこられないからね。
寂しくて、こっちで新しいパートナーを見つける人もいる」
そう言ってビールに口をつけると、彼は続けます。
「俺だって、そういう話があったんだ。
俺は奴のことがとても好きだった。
きれいで、すてきなフィリピン人の女だよ。
でもなぁ、難しいんだ。簡単な話じゃない。
だから『止めよう』って言ったんだ」
乾杯の音頭。
ビールを飲んでご満悦のヘンリック。
エジプトとデンマークのハーフであるこのお兄さん、
どこに行ってもマイペースです。
皆で飲んで食べて、イス取りゲームをし、
しまいには踊りだす。
お互いの額の間にミカンを挟んで、落とさないように踊るゲーム。
おっちゃんは酔っ払って調子に乗り、
そのへんに落ちていた新品の赤いTバックショーツを
頭に被って踊り始めた。おいおい。
彼を指さして笑う女たち。
そんな中、私はちょっと所在ない気分だったのを覚えています。
だって私は、部外者ではないからです。
こうやって、
外から労働力を持ってこないと回らないイスラエル社会。
誰かの紹介を受けて遠い地へ移り、
家族と離れて毎日働き、
厳しい環境を生き抜く女の人たち。
何か、私が向き合わなければならないものを思い出しました。
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