2009年12月18日金曜日

テルアビブの車事情

ある夏の金曜日。
とある会合で知り合った
親日家のユヴァル氏(超美形だが残念ながら二児の父)
に誘われました。



ユヴァル:「うちの娘たちと奥さんが海行きたいっていうから、
      テルアビブまで迎えにいくよ!
      海行こう!」



彼らが住むのは、
西岸とのグリーンラインのすぐ外、カルキリヤの西、
カフル・サヴァ。
そこから車で出てきてくれたユヴァル一家と共に、
一日を過ごしました。



驚いたのは、
テルアビブの繁華街が金・土曜日でもオープンしていること。
ユダヤ教の決まりでは安息日であるにも関わらず、です。

宗教的な匂いのするエルサレムで店を開けようもんなら、
正統派ユダヤ教徒たちに石を投げられること請け合いですもん。
(お陰でハリポタが土曜日に全世界同時発売されても
 イスラエルの本屋では売りだせない、
 なんて事件が過去にあったなぁ)



まぁそんなわけで、
お陰様で海沿いのレストランでのディナーを楽しんだ我々。



しかし車まで戻ってみると、
辺りは数台の車のアラームで騒々しい。

それを見たユヴァルが一言。



ユヴァル:「またか…」


なみ:「またかって、どういうこと?」


ユヴァル:「いや、テルアビブで車の盗難は日常茶飯事なんだよ。
       だから皆セキュリティシステムを付けてるんだ。
       あのアラームはシステムの作動音さ」


なみ:「そうなのね」



ユヴァル:「一度盗まれたら最後、二度と戻ってこない。
       だって、やつらは西岸に持って行ってしまうからね」




あぁ、つまりそれは、



テルアビブまで出てきたパレスチナ人が車を盗んで、
西岸で売りさばいているってことなのね。




実際にそうなのか、
それともそう思われているだけなのか。
それは、まだ私には分かりません。

2009年12月7日月曜日

お金は大事?

ある日の朝のこと。
エルサレムのホステルからヘブライ大学まで通学途中、
バス停前にある食品雑貨店で、
7シェケルのペットボトルジュースを買おうと思った並木。
(1シェケル=25円くらい)


しかし、並木の手元にあったのは100シェケル札。



並木:「あのう、ちょっと大きいお金になっちゃうんだけど…」

店主のおやじ:「あぁ、いいよ。こうするから」



と言い放ったおやじ、

100シェケル札を……





破いた。

びりっと。真っ二つに。





並木:「………。」



口をあんぐり開けてぽかんとしている並木を見て、
おやじはハッハッハと笑いながら言い放ちました。



おやじ:「まぁまぁ。所詮紙なんだから~。」



そう言いながら、セロハンテープを紙幣にペタリ。
いや、そりゃ紙だけど。







しかし、破るとはいかないまでも、
中東のお金は概して使い込まれたヘロヘロのお札が多いと思う。
まるで布のよう。
そしてメモ書きや千切れがあるのも当たり前。
「おいおい、もっと大事にせいよ」と突っ込みたくなります。

ちなみにこれがエジプトの25ピアストル札。
誰ですか、「100」なんて書きこんだの。



ちなみにパレスチナ自治区で流通しているシェケルは、
イスラエルの通貨です。

でも西岸ではヨルダンのディナールも使えたりします。
以前、西岸はヨルダンの支配下にあったからです。
(だから「ヨルダン川」の「西岸」って呼ぶんだよね)



両替所の人にお金について聞いてみた。



なみ:「シェケルとディナール、どっちがマシ?」



返ってきたのはこんな答え。



「そりゃぁ、シェケルは嫌いさ。イスラエルの金だ。
 ディナールも好かないね。
 ヨルダンだってイスラエルと似たようなもんさ。

 でも、贈答用にはディナールが人気だよ。
 アラブだから、まだマシだと思ってるのかな。
 最近はドルって手もあるらしいけど、
 所詮アメリカの金だからなぁ。」



昔々は、パレスチナのコインなんてものもありました。



写真は、シリアのアンティークショップで見つけたもの。
100年くらい前の品物です。





ちなみに「お金を細かくする」という表現は、
この両替商のお兄ちゃんに教えてもらいました。



なみ:「お金を崩したい時って、qassam(分ける)って言うの?」


両替商:「それは…こうやることさ(ニヤニヤ)」



そう言って彼はお金の真ん中を二つの手でつかんで、


ビリッと切れ目を入れた!!!
またかよ!!!





両替商:「これからは『Sarraf』って言いな(笑)」






…はい。
道端が私の語学学校です。

2009年12月4日金曜日

寒いんだぞこらぁっ。

断言します。


西岸地区の冬は、




東京の冬より寒い。


まじ寒です。激寒です。
「パレスチナって、常夏でしょ~★」
という輩は非常に多いのですが、
半袖で冬のパレスチナに放り出してあげたいです。




どのくらいMAXで寒いかと言えばですね、
私は毎晩パジャマを二重に着て、
コートを着て、
毛布を3枚かけ、
羽根布団を2枚かけてもまだガタガタする
ような寒さです。
ナメてはいかんのです。

その原因は、2つ。
まず、高度の高い立地。
そして、夏の日差しの中でもヒンヤリするようにできている、
つるつるの肌色エルサレム・ストーン製の家。
こいつが底冷えを呼びます。



そして冬といえば雨。
中国製のカサ(シャムスィーエ)なんて役に立たず、
バケツをひっくり返したような勢いで降る雨。
梅雨なんてメじゃない。
家の前の坂は常に小川。ミニ滝。
スニーカーで歩こうもんなら1秒で足が水没です。



「へぇ、雨なんて降るんだ」と思われるでしょうが、
パレスチナでは「雨」と「冬」の結びつきがとても強いのです。

「冬=雨季」というべきか、冬と雨が同じ言葉です。
雨が降っている時、彼らは「世界が冬だね(addoniya toshtee)」と言います。
恵みの雨でもあり、
若者は雨の中、傘もささずにピョンピョンしていたりします。
風邪をひかないのか非常に心配です。



ちなみに、たまに雪も降ります。
その時は大人から子どもまでおおはしゃぎ。


ナーヘル兄(27)はニヤニヤしながら言います。

「雪が降るとよぉ、
 みんな雪玉を投げて遊ぶんだ。
 そんな時はさ、
 ヒジャーブ被った女の子に雪玉をぶつけたって
 お咎めナシさ。
 こんな出会いもアリだろ?(笑)」



まぁ、
「雪の日に出会った」なんていうのは
ロマンスが好きなパレスチナ人に似合う気がします(笑)。
でも私を標的に雪玉を投げてくる男・子どもらには辟易した、
2006年の冬でありました。

2009年11月29日日曜日

覚えやすいアラビア語

今朝、イタリア人の相方が
「肌荒れ」を日本語で何と言うか訊いてきました。


ペッペ:「ほら、あれ、なんていうの?」

なみ:「『カサカサ』だよ」

ペッペ:「そうそう、カサカ……えっ?(怪訝な顔)



ごめんなさい。「肌荒れ」です(笑)。




ちなみにエルサレムの宿で
バックパッカー相手にボランティアしてた頃、
外国人に人気の日本語は
「ソーソーソーソー」(頭を上下にカクカクさせながら)
でした。
日本人が集うと連発するこの言葉、
覚えやすくて面白い響きらしいです。



それはそうと、反復語みたいな言葉って
日本語に限らずあるんですねぇ。
私がパレスチナに飛んで、初めて覚えた方言もその類で、



それはずばり、


「ヒスヒス」


「シブシブ」


です。

なんじゃいな、と思われそうですが、
「ヒスヒス」は蚊のこと。
「シブシブ」はサンダルのこと。


何故だか分かりませんが、
西岸は蚊が非常に多いです。

ベープマットやかゆみ止めは必須!!!
薬局で買って下さいね~。

2009年11月25日水曜日

ゴマペーストの活躍

日本にもある「ゴマ」が、
実はパレスチナ料理では大活躍します。

どこの家庭にもあるのが、
「タヒーナ」と呼ばれるゴマペースト。
香ばしさが前に出る日本のゴマペーストとは違い、
何だか生っぽくて灰色を帯びたペーストです。




先ずこれは、タヒーナの兄弟で「ハルウェ」というお菓子。
イスラエルにもあって、「ハルヴァ」と呼ばれているらしいです。

甘さの中に、ぎゅぎゅっと詰まったゴマの風味があるお菓子で、
パンにつけて食べます。
向こうの人にとっては「お菓子」というよりも、
ジャムみたいな感覚の食品かも。


ハルウェが特に美味しい!とナミキが独断と偏見で決めているのは、
ヨルダン川西岸地区の街・ナーブルスのハルウェ。
ナーブルスはもともとお菓子のクオリティが高い(甘い)ことで有名なのですが、
旧市街を歩けばあちこちで
ハルウェやタヒーナ(ゴマペースト)を作っています。
試食もさせてくれる。


ちなみに映画「パラダイス・ナウ」の舞台はナーブルス。
「どうしてナーブルスの人たちはお茶に砂糖をいっぱい入れるの?」
と女の子が主人公に訊きますが、
まさにナーブルスっ子たちは甘いものが好きなのであります。




タヒーナを作ってる写真がどっかにあったはずなのですが、
今ちょっと見つからないので断念。


ナミキ家に来ると
エルサレムで仕入れたハルウェの試食ができます!(笑)





そして、タヒーナが欠かせないのは、
何といってもホンモス。



以前の記事でも紹介しましたが、
もともと「ひよこ豆」を指す単語である「ホンモス」は
中東料理の中でもポピュラーな逸品。


この写真の一品は、並木の相方が家のミキサーで作りました。
大雑把な作り方は、

1.水に一晩つけたひよこ豆を茹で、柔らかくする
2.つぶした1と、タヒーナを1:1くらいで混ぜる
3.水、レモン汁、にんにくなどを加えて出来上がり

といった感じ。
お店によって豆の味が強かったり酸味が強かったりと、
色々バリエーションがあるようです。
街で見かけた際にはぜひお試しを~。
日本ではあまり見かけませんが、
アメリカのスーパーには普通にあるらしいですよ!!

2009年11月9日月曜日

ミシマより有名な日本人

留学期間も半分以上が過ぎた2007年春。
たまたま知り合ったパレスチナ人ジャーナリスト・ムヒーブが
「俺はミシマが好きなんだ、
 ミシマの国から来たマイが羨ましい」
と言ったことは、
私にとってかなりの衝撃でした。

何故って、


それまでの8ヶ月間、ある例外を除き、
パレスチナ人の口から
日本の著名人の名を聞いたことが無かったからです。
うわぁ、新鮮。
トヨタやホンダ以外を知っている人がいるなんて。

(ちなみにイスラエルでは村上春樹が有名。
彼の作品が好きな気持ちも分かる気がする。)




唯一の例外、
パレスチナ人が誇らしげに「知ってるよ!」という日本人の名前、
それは、

「クズモト」




????



なみ:「誰よそれ」

彼ら:「君は同胞の名を知らないのか?!
    ありえない!」

なみ:「ほんとにそんな名前なの?」

彼ら:「そうとも! ほら、赤軍の、イスラエルに逮捕された…」




..........。





あぁ!



オカモト・コウゾウだ。



かつてイスラエルはテルアビブの空港で
銃を乱射した日本人。
パレスチナ人との連帯の名の下に、
テロを起こした日本人。


彼のおかげかどうかは知らないけれど、
イスラエル当局は今でも、
日本人の「オカモト」さんの入国審査に厳しいとの噂。



そんなオカモト・コウゾウさん、
oとeが上手く発音できないパレスチナ人の間では

「コウゾウ・オカモト」


「クズ・ウカモト」

「クズモト」

と勝手に名前が変わってしまったらしい。
自信満々に「クーズーモートー」と言い放ってくる彼らを見ていると
「誰がそんな名前を…」と切なくなってくる。


何はともあれ、
日本ではすっかり忘れ去られている彼は、
パレスチナ人にとって日本人の代表である模様。




ブルースリーの国から来たんだよね!」

と言われるのも嫌だけど、

クズモトの国から来たんだよね!」

と言われるのも微妙。


私としてはぜひ、
ここらで福山雅治あたりに有名になってもらいたいのですが、
どうしたもんかなぁ。

2009年11月7日土曜日

アラビア語方言のお話

「アラビア語喋れると、どこでも通じて便利でしょ~」


なんて言われますが、
実はアラビア語はかなり面倒な言語だと思います。
中東全域で使えるようでいて、
意外に使えないからです。


使えないその訳は、
外国人が学ぶアラビア語と。
現地で各地の人々が喋るアラビア語の「大きな差」。

例えばパレスチナ方言を喋る私は
モロッコ人の言うことがさっぱり分からず、
そこで共通語を喋ろうとすると
とても堅苦しい話し方になってしまいます。



私達がアラビア語を日本で勉強しようとする時、
初めに習うのは「フスハー」と呼ばれる正則語。
コーランや新聞、ニュースを読み聴きするための言語です。


しかし市井の人々が話す言語は「フスハー」ではなく、
「アーンミーヤ」と呼ばれる方言。
現地でも、コーランを読まなかったり学校に通わなかった人々は
フスハーを解することが難しいものと思われます。
それほど、使わない言葉なのです。

だから、フスハーをマスターしたからといって
現地の人々ときちんとコミュニケーションが取れるわけではなく、
中東各地域の諸文化を読み取るには
フスハーでは不足してしまいます。


方言も地域によってそれぞれ。
湾岸方言、シリア方言、エジプト方言、
モロッコ方言、イラク方言等があり、
更にそれぞれの中でも地域によって微妙な違いがあります。

例えて言うなら、
エジプト方言は日本の大阪弁。
(人々のノリ的にも大阪っぽい。)
モロッコ方言はシリア方言話者にも分からなかったりするので
琉球語といったところ?

シリア方言は雰囲気的に京都弁っぽいですが、
大阪弁であるエジプト方言とはかなり違います。
イラク、湾岸はベドウィン系。何弁に例えればいいんだろう?



パレスチナ方言を喋る私は、
シリア方言カテゴリに属しつつも
「田舎者だね~」的な雰囲気の喋り方であるようです。

そんな私の言語歴はというと、


東京外国語大学でフスハーを3年(落ちこぼれ)

パレスチナに渡航

フスハーを喋っても通じず、
相手の喋ってることが分からず、
買い物をするにも困る

パレスチナ方言の日常会話を何とか習得

エジプトに行ったら周りの言ってることがサッパリ

シリアに行ってもたまに単語が分からない

帰国後、フスハーの授業でを取る


といった感じ。
という訳で、
どこでもアラビア語が喋れる人材になるためには、
フスハーをきっちり学んだ上で
方言を幾つか学び、その構造を理解する必要がありそうです。

何せ、方言それぞれで文法や音の崩し方がそれぞれ違う。
シリア方言では未来形と現在進行形が同じ表現になる一方で
エジプト方言にはきちんと未来形があったりする。
シリア方言ではとても丁寧な言葉が、
モロッコ方言では口にしてはいけない言葉になったり。
エジプト方言ではj音をg音で発音するけれど、
湾岸方言ではq音をgもしくはgh音で発音します。

という訳で、
アラビア語話者を通訳に採る時には
出身や方言も気にしてあげてくださいねー!
というお話でした。オチなしでおしまい。

2009年11月4日水曜日

暇なの?趣味なの?文化なの??

私が通っていた、西岸のビールゼイト大学。


丘のてっぺんにあるこのキャンパスに集う
各学部の学生たちは、
休み時間ともなると、通路のへりに鈴なりになって座ります。

韓国人や日本人を見るたびに沿道から
「チンチャンチョーン」と言ってからかってくる男が
うざいったらありゃしません。

が、しかし、このアホな彼らが必ずしも学生かといえば
実はそうでもなかったりします。



例えば、私の隣人アシュラフ(当時24歳)。
パレスチナ警察で働いて食いつなぐ高卒のこの男、
たまに用もないのに大学をほっつき歩いています。


アシュラフ:「よーミミ。元気か。勉強はどうだ。
        ちゃんとやってるか?」


……余計なお世話です。
ちなみに「ミミ」とは私の愛称らしいです。




アシュラフは友人の男と腕を組んで、
構内を行ったり来たりします。

何分も何分も、
同じところを行っては戻り、戻っては進み。
一体何を考えてそんなことを……。



ま、しょうがないよね。
なんたって、パレスチナだもん。
公務員はもう半年(2006年9月当時)もお給料下りてないし、
仕事はなかなか見つからないもん。
大卒だってコネがなきゃ見つからないんだから。
暇をもてあましちゃうよね。




と思っていましたが、




同じ光景をシリアでも目にした私。



それは2009年春、
ダマスカス空港に朝2時に到着し、
夜が明ける6時までバスを待っていた時のこと。




腕を組んだ20代から40代の男どもが何組か、
だだっぴろい空港のロビーを歩く歩く。

煌々と明かりがついたロビーの中、
何もない空間に向かって二人組で一方向に突進し、くるっとUターン。
また歩いて戻りながら真面目な顔で何か話しこんでいる。

腕を組んだ男がもしょもしょ話してる光景は
何だか深刻な様子に見えますが、
聞こえてくる言葉は


「お前、だから言っただろ。俺はこう言ってやったんだよ、
 分かるか? ほら、…」

「あぁ、それは分かってるけど…」


みたいな、
あれこれそれどれを駆使した他愛もない話にも取れます。
でもスーツケースを引くでもない、普段着の男どもが
朝4時に空港を歩き回っているのって変なの。




という訳で、
この無駄に歩き回って話し込む姿は
どのアラブ諸国に行っても見られるものなのか、
ちょっと気になります。
シリアも最近失業率が上がっているそうなので、
無駄に歩き回るのが流行ってるのかしら。





ちなみにシチリア出身の我が相方も
電話をしている時はあっちこっち行ったり来たりします。



シチリアでも、皆ビーチを行ったり来たりするらしい。
地中海性の習慣なのかなぁ。

2009年11月1日日曜日

婚約します!という時は

西岸地区ジェラゾン難民キャンプの友達ムシーラが
婚約した2007年6月のこと。



「婚約式するから、来てね!」と言われ、
カメラ持参で並木は隣村ジェラゾンを訪問しました。



そもそも男女関係というものは、
パレスチナ的慣習と日本でずいぶん異なっていると
私は思います。



日本では例えば、

並木がペッペを学食で逆ナン

家に転がり込んで事実上の同棲を始める

相手が真面目だったため、両親にも挨拶

公然と同棲、婚約状態
というプロセスを取ってもOKな家庭もアリですが、



ムシーラが説明してくれることには、
パレスチナではこんな感じ。



「まず、両親が『そろそろ結婚しなきゃ』って言うでしょ。  
そしたらツテを辿って、
 
良さそうな男性を両親が見つけてくるの。

 
それから実際に家族ぐるみで会ってみて、
 
金銭的にも性格的にも良さそうだったらまず婚約よ。
 
婚約式では盛大なパーティーをして、女の子は金の装飾具をもらうの。
 
それから、デートを始めるのよね。
 
どれだけ通ってくれるか、私の両親に対しての振る舞いはどうか…
 
とか、きちんとチェックするの。
 
期間は人によってそれぞれかな。
 

それで、良かったらそのまま結婚式。
 
ダメだったら指輪を返して
 『バイバーイ』よ。(笑)」




バイバーイ、もアリだったんですね(笑)。

彼女は婚約しましたが、
2ヶ月後に再度訪ねてみたら
「あんまり私の親に優しくなかったから、
指輪返したわ。
 バイバーイ、よ」 と笑っていました。

いつか、ママやパパにも優しくて、
あなたに仕事を続けさせてくれる男性がきっと見つかるよ、
ムシーラ。





別の女友達ズィクラヤートは18歳で婚約。

相手はパン屋で働いている20代後半の男性で、
毎日彼が仕事帰りに会いに来ていました。
「大学を出たら結婚するわ」とのこと。

デートと言っても、車の中で少し二人きりになる位。
遠くまで二人でお出かけ、というのはダメなんだそうです。

彼の運転する車を彼女の家の前に停めてもらい、
「マイ、ちょっと先に行っててね」と言ったズィクラヤートは

声色も表情も、
いつもの男勝りな18歳ではなく、
なんだか大人びた女性のようでした。

こうやって、ロマンスを楽しんでいるんだなぁ。
今頃は彼女も結婚の準備をしているかも。






2009年9月、エルサレムで出会ったバッセム。
私達の乗るミニバスを運転していた彼は、
運転中、しょっちゅう甘い声で電話をしていました。



並木:「ひょっとして、彼女~?(ニヤニヤ)」
バッセム:「あぁ、実は婚約したてでね(笑)」



よく見れば、薬指には銀色の指輪。



バッセム:「隣にアラビア語を喋る日本人の女の子がいるよ、
       って言ったら嫉妬してるんだ、あいつ(笑)」



並木:「謝っといてね(笑)。
    今日も仕事帰りに会うの?」


バッセム:「いや、一昨日会った」


並木:「毎日会わないの?」


バッセム:「何ていうか~…
      だって、毎日会ったら、
      こうやって嫉妬してくれなくなるだろ(笑)。
      今がきっと一番いい時期なんだから、

      距離は適度に取るんだよ」





うーん、戦略あり。
とはいえよく道を間違えたバッセム、
きっと今日も適度にボケつつミニバスを運転していることでしょう。






さて、ムシーラの婚約式から写真を。


娘に祝福のキス。


おめかしして踊る女の子たち。




男たちは外でコーヒーを飲む。


音楽を流すDJ役のお兄ちゃん。

2009年10月29日木曜日

パレスチナで、あのアニメが?!

「インフラは大丈夫なのか?!」と心配されがちな
西岸地区ですが、
例えばテレビチャンネルで言えば、
なんと日本よりも多いです。(衛星放送)


大体どんなお家にでもパラボラアンテナが付いていて、
(勝手に)衛星放送を受信しています。300チャンネルくらい。
私たち留学生がよく見ていたのはBBC。
他にも、アラブ諸国のチャンネルが観られたり、
インドやヨーロッパの放送が観られたりします。

ジャンルも豊富。
ちょっと手が滑るとアダルトチャンネルを押してしまうので
チャンネルを操る時はヒヤヒヤです(笑)。




さて、色々な家庭におじゃますると、
大体夜はテレビの前に集まって
お茶を飲みながら、みんなで番組を観ます。

音楽番組で子どもらが踊りだしたり、
シリアやエジプトのドラマを真剣に観たり。
日本人の来客を喜ばせようとして、
たまに映るNHKや韓国の放送をつけてくれたり。


でも私が観て一番テンション上がったのは、


アラビア語で喋るとっとこ○ム太郎


であります。
現地では、
「ちびまる☆ちゃん」、「Pケットモンスター」、
「○ちゃんと僕」などなど、
日本のアニメもがっつり放送されていました。
(クウェートか何処かのアニメチャンネルだと思う)




「○ム太郎!! やばい、○ム太郎だ!!! 
 知ってる? これ日本のアニメなんだよ!!!」


と騒ぎまくった私ですが、
周りのリアクションは「あ、そうなの?」的な微妙さ。
中国映画が出てきた時は「見て見て、日本よ!!」なんて
あんなに騒ぐのに……。(笑)
どうやら日本のアニメは、観られてはいても
あんまり日本製であることを意識されていない模様。



ちなみにイタリア人の相方によると、
日本のアニメはイタリアであまりに人気であるため、
イタリア人旅行者が日本に来た際に
「キーコーヒーは美味いのか」と訊いてくれることがあるそう。
某青春野球漫画○ッチのインパクトが強いのでしょうか。



ちなみに友人はイスラエルで、
アニメ「○リーチ」をヘブライ語に訳しています。
まぁ、そんな訳で、
日本のアニメは中東でも頑張っているのであります。

2009年10月28日水曜日

渋滞の原因はソレか!

西岸ラーマッラーの郊外にあるビールゼイト村。


「オリーブの家」の意味の名を持つこの村は、
キリスト教徒の多いのんびりした場所です。



大学は村の端っこにあります。
並木はキャンパスまで1シェケル5分の
乗合バス(セルビース)を利用していましたが、
たまにセルビースが動かないことがあります。



その原因とは!!!




これだっ!!!!









羊の海です。
私は彼らにしょっちゅう足を踏まれてましたが。



彼らが通り過ぎたあとは、コロコロした小さい落とし物でいっぱいです。
羊飼いが通るのは早朝と夕方なので、
学校に行く時間帯の道路は牧場の匂いがします。

2009年10月25日日曜日

自治区に入って肝試し?

パレスチナ自治区は、オスロ合意に基づいて
主に3つの区分に分類されています。

area A、B、Cと呼ばれるそれら3つの区分は、
イ・パどちらの当局が行政・治安を担当するかが違います。

まず、A。
これは
行政⇒パレスチナ自治当局
治安⇒パレスチナ自治当局 です。
主に大都市はこの部類に入ります。
(ヘブロン協定のあるヘブロンは除く)

Bは、
行政⇒パレスチナ自治当局
治安⇒イスラエル国防省

Cは、
行政⇒イスラエル国防省
治安⇒イスラエル国防省
主にイスラエル人入植地がCにあたります。


それぞれの地域の入口には検問が設けられ、
パレスチナIDカードを持つパレスチナ人は、
Cに入ることはできません。
同様に、イスラエルIDカードを持つイスラエル人は
Aに入ることは許されていません。

(道路はどうなのか…というと、
 西岸内では幹線道路の一部を共有しています。
 でも、基本的にAに繋がる道はパレスチナ人、
 Cに繋がる道はイスラエル人しか使うことができないのだそう。)



そうやってエリアが分けられている中、
検問を文字通り、巧みにすり抜けたり乗り越えたりしながら
自治区のAエリアに入ってくるイスラエル人たちもいます。
今日は、そんな人たちの話。(前置きなげぇ)

* * *


まず、よく見かけるのは平和活動家。
ビルイーン(Bil'in。ビリン、と日本では呼ばれています)や
ウンム・サルムーナ(umm salmouna、ベツレヘム付近の村)等で
壁や占領体制に反対運動を展開する人たちです。
男性も女性もいます。


その中の一人は、日本で言えばアラサーくらいの女性。

私がビルイーンでのデモを見学しに行った際に出会った彼女は、
ヨルダンでの国際イベントで再会した時に
お酒を片手にこう語りました。



「私は、家族の中に溶け込むことができないの。

 私の祖母はルーマニア出身で、ホロコーストを体験したのよ。
 彼女は、私に会うたびに言うの。
 『なんでそんな活動をしてるんだ、やめなさい』って。
 私の周りの肉親は、みんな反対してるわ。

 それでも私は、これをやらなければいけない気がしているの。
 やらずにいられないのよ」





他にもジャーナリストなどが西岸に入ってきますが、
私が一番驚いたのは、「肝試し学生」




ビルイーンで仲良くなったジャーナリストのおやじ。
風呂には一週間に一度しか入らず、
穴のあいたボロボロのTシャツを着て、
ヒッピーと呼ばれるおやじ、ムヒーブ。

彼は1/4がハンガリー系ユダヤ人、
3/4がパレスチナ人だそうで、
道を歩けばイスラエル人と間違われ警戒されるような風貌。


彼とビルイーン村を訪ねた帰り、
彼の紹介で乗合バスに乗り込んできた6人くらいの若者がいました。
アラブ人ではない身なりと顔立ち。
でも外国人留学生にしては若すぎる雰囲気。



なみ:「ちょっとムヒーブ、誰よこの人たち」

ムヒーブ:「イスラエル人の学生たちさ」



彼らは「自治区内でヘブライ語を喋らないように」と
言い渡されているらしく、
互いに交わす言葉はとても少ないまま
バスの中から外を見まわしていました。


その後、ラーマッラーの中心に着いてバスを降り、
きょろきょろと辺りを見回すヒヨコのような彼らを
ムヒーブはイスラエル人ジャーナリストに引き渡していました。
彼らはこれから街のツアーを行うそう。



その後入ったマクハー(カフェ)で、
ムヒーブは水タバコを吸いながら言います。


「あいつらは、17歳かそこらの若造だよ。
 肝試し感覚で、西岸に入ってくるんだ。

 危ないからヘブライ語を喋るなと言っても喋るし、
 危ないったらありゃしない。
 過激なやつに袋叩きに遭うかもしれないじゃないか」



確かに、彼らの赤い短髪や短い袖はちょっとパンクで、
ごみごみしたラーマッラーの風景の中でさえ浮いていました。


あの時に肝試しを終えた彼らは、
今頃、イスラエルの兵役の終盤を迎えているはずです。
(兵役拒否していなければ。)


あの時、彼らは何を見、何を感じ、
イスラエルに何を持ち帰ったのかなぁ。
二回、三回と自治区を訪ね直したのかしら。
自らに貼られたレッテルを、剥がそうとしたかしら。
それとも、肝試しで終わったのかなぁ。

と、今でもたまに思う並木でした。

2009年10月24日土曜日

イスラエルでフィリピン料理

西エルサレムやテルアビブを歩くと、
タイとかフィリピンっぽい女の人たちがいっぱいいます。
物価が安い東エルサレムで買い物をしている彼女たちを
見かけることも。



留学中、ふとしたきっかけで、
私は彼女たちのコミュニティにお邪魔したことがあります。


それは、2006年12月末のことです。
デンマーク人留学生ヘンリックと私は、
テルアビブのクラブで新年を迎えるドイツ人集団と合流すべく
エルサレムからテルアビブに向かっていました。
20シェケル、小1時間の乗合バスの旅です。


当時ヘブライ語の数字を覚え始めた私は、
ふとしたキッカケで隣の席のおっちゃんと英語で話し始め、
ヘブライ語で「あけましておめでとう」を教わったりしていました。

そしてさらにふとしたキッカケで、
私の口からアラビア語がポロリと出てしまったのです。




おっちゃんは私の顔をまじまじと見て、
「君、アラビア語を喋るのかい?」


なみ:「うん、ビールゼイトに住んでいるからね」

彼:「私もアラビア語を喋るんだよ!」




という訳で、おっちゃんはアラブ人でした。
ヘブライ語も英語も喋るなんて、羨ましい。




なみ:「テルアビブに何しに行くの?」

彼:「これから友人のパーティーがあるんだ。
   そうだ、君達もおいでよ! きっと楽しいぞ!!」


なみ:「どうするヘンリック、行ってもいい?」

ヘンリック:「あー、俺はビールが飲めれば何でもいい…」




じゃぁ、一時間くらい寄り道していこうかな。





連れていかれた先は、
テルアビブのバスステーション近くの寂れた通り。
夜も10時となれば人通りは少なく、
ゴミやら何やらが散らかっていて怪しげな歩道。


そんな歩道に面した、人一人が通れるくらいの細いドア。
狭い通路。急な階段。
それを登ったところに、目的地はありました。



着いたところは1Kのアパートの一室。
10人くらいのアジア系の女性や子どもたちが、
クリスマス・パーティーの準備をしています。



袋からゴソゴソとカールスバーグを出しながら、
おっちゃんが言います。

「彼らはクリスチャンなんだけど、
 クリスマスには休みが取れないんだ。
 だからこうやって、週末や年末に集まるんだよ」


なみ:「どこの人たちなの?」

おっちゃん:「フィリピン人。あそこの男はエジプト系イスラエル人だよ」

なみ:「夫婦なの?」

おっちゃん:「あぁ、隣に座ってる女とね。
        子どももいる。正式に結婚しているとは言えないけどね」



話している間にどんどん並べられていくアルミ皿には、
豚肉の入ったフィリピン料理が山盛り。
まさか、イスラエルで本場フィリピン料理を食べるなんて。
今まで外語祭でしか食べたことなかったのに。。。。



ぽかーんとしている私を笑いながら、
彼は続けます。



「彼らはね、国で働けば一月300ドルしか貰えないんだ。
 でもイスラエルで働けば一月1000ドルだよ。

 介護や工場の仕事をするんだ。

 だから、夫や子どもを置いてここに来る。

 イスラエル政府も労働ビザを簡単にくれる。
 

  でもな、ビザは5年限りなんだ。
 イスラエル政府は簡単にはビザを更新させてくれない。
 君なら、5年で働くのを止めて帰るか?
 仕送りが必要なんだ。だから働かなきゃいけない。

 ここにいる彼らの半分は、不法労働者だよ」


「10人で1Kのアパートを借りて、シェアする。

 彼らはあまり家には帰ってこられないからね。
 寂しくて、こっちで新しいパートナーを見つける人もいる」


そう言ってビールに口をつけると、彼は続けます。


「俺だって、そういう話があったんだ。
 俺は奴のことがとても好きだった。
 きれいで、すてきなフィリピン人の女だよ。

 でもなぁ、難しいんだ。簡単な話じゃない。
 だから『止めよう』って言ったんだ」





乾杯の音頭。
ビールを飲んでご満悦のヘンリック。
エジプトとデンマークのハーフであるこのお兄さん、
どこに行ってもマイペースです。

(後ろにいる赤いのがおっちゃん)



皆で飲んで食べて、イス取りゲームをし、
しまいには踊りだす。
お互いの額の間にミカンを挟んで、落とさないように踊るゲーム。
おっちゃんは酔っ払って調子に乗り、
そのへんに落ちていた新品の赤いTバックショーツを
頭に被って踊り始めた。おいおい。

彼を指さして笑う女たち。
そんな中、私はちょっと所在ない気分だったのを覚えています。
だって私は、部外者ではないからです。




こうやって、
外から労働力を持ってこないと回らないイスラエル社会。
誰かの紹介を受けて遠い地へ移り、
家族と離れて毎日働き、
厳しい環境を生き抜く女の人たち。



何か、私が向き合わなければならないものを思い出しました。

2009年10月23日金曜日

スカーフだってオシャレだぞ

「イスラーム教徒の女性はスカーフを被らなきゃいけない」



なんて言うと凄く禁欲的で
「ホントは被りたくないのにー!」と思っていそうなイメージですが、
実のところ私はスカーフ(ヒジャーブ)にちょびっと憧れていました。
ヒジャーブ用の布をヘアバンドみたいに髪の毛に巻いて
マネっこしてたくらいです。



髪の毛を隠すには、
先ず太めのヘアバンドで髪の毛を押さえてから、
長い長方形のヒジャーブで髪の毛をくるくる巻き、
ピンやマチ針で留めていきます。
前髪や横髪もしっかり隠します。


でも日本だろうがパレスチナだろうが、女の子は女の子。
工夫を凝らしてめいっぱいのオシャレをします。
もちろん流行だってある。


オシャレなヒジャーブっ子たちは、
服とヒジャーブの色をそろえてみたり、
下につけるヘアバンドの色をチラ見せしたりします。

私が居た頃に流行っていたのは、ヒジャーブとレースを重ねて巻くこと。
白いレースとヒジャーブのコントラストがキレイでもあり、
そんでもって可憐な感じです。かわゆす。
写真でお見せできないのが至極残念なのであります。




ところで、私の隣人の年頃の女の子は、
イスラーム教徒なのに、ヒジャーブを被っていませんでした。

両親をよく手伝う長女。物静かで大人しくて質素。
すらっとした身のこなしとくるくるカールの黒髪で、
誰が見ても「あの娘はきれいだよ」と言われる彼女。

そんな彼女が、ヒジャーブを被らない理由を語ったことがあります。



「知っているでしょう、
 ここヒジャーブを被らないことは”ハラーム”(※1)なの。

 でも神様は、待っていて下さるわ。
 私が『被ってもいい』と思う時になったら被るべきなのよ。
 それが、本当に内側から出てくる信仰心というものだもの。
 周りに言われて被るものじゃないわ。」




小学校に上がるくらいの頃から
ヒジャーブを被るようしつけられる子もいれば、
自分で「その時」を選ぶ子もいます。


もし私がこの地に育っていたら、何を選び取ったのかな。
なんて、たまに思う並木でした。



※1 ハラーム:
宗教的に好ましくないこと。
例えば婚前交渉なども「ハラーム」にあたる。

「仏教徒には神様がいっぱいいるの」と言うと
人によっては「そんなのあり得ない!ハラーム!」
と返してくれたりもする。一神教コミュニティだとよく言われる。
「世界はそんなもんだよね」と返してくれる人もいたりする。
世界は色々だから面白いんだよね。

2009年10月22日木曜日

西岸内でアパートを借りる

「ちょっくら中東行ってきます」

と言うと、
「危ない」「暑い」「砂漠」「ラクダがいそう」(?!)
「っていうか大学あるの?!」「スカーフかぶるの?」etc etc、
いろいろな答えが返ってきますが、


心配しながら訪ねてくる日本からの来客が、
必ずたまげるのが私の住んでいたアパート。




まず入り口からしてキレイ。
私も、他の留学生も、
もっと埃っぽくて狭いところを想像していたのに。


こんな石造りの家を、
一月100~150ドルで借りていました。
家具つきです。
周りの留学生も、大体シェアしながら
150ドルくらいを払うのが2007年当時の相場。


キッチン。

↑並木、タブレ(太鼓)の練習中。


水道・電気代はイスラエル側から買っていたため高く、
日本と同じくらいかかった気がします。合わせて月1万強とか。



↑パーティーついでに
うちでダブカ(パレスチナの伝統的ダンス)を踊りだす
近所の男ども。


同居人ジャネッサ(アメリカ人)が1週間ビザしかもらえず、
西岸を去る時に皆を集めて開催したフェアウェルパーティーでは
机をどかして皆で踊りました。




という訳で、とりあえず言えるのは、
「住めば都だよ★」ってことだと思います(笑)。
どんなにキレイな家に住んだって誰もいなきゃつまらないし、
どんなに狭い家だって来客があれば楽しいのです。

2009年10月21日水曜日

シャーミー料理を食う@池袋

シリア、レバノン、ヨルダン、パレスチナ辺りを
「シャーム」(大シリア)という概念で指すことがあるのだけれど、
この辺りは言語も文化も大体同じカテゴリーに属しています。
(勿論差異はありますが。)

どれくらい同じかというと、
パレスチナ方言を1年勉強した私は、
シリア方言は分かるけどエジプト方言は分からない、みたいな。
「幾ら?」と聞くのを、
パレスチナやシリアでは「アッデーシュ?」と聞くけど
エジプトでは「ビカーム?」と聞くよ、みたいな。
ごめんなさい湾岸方言は謎過ぎて分かりません誰か教えて、みたいな。


と、マニア過ぎて意味不明な話になる前に、
今日は池袋で食べたシリア料理屋さんのお話。


パルミラ



今日は豚丼(一人吉野家@御茶ノ水)を
食べてしまったあとの訪問だったので、少なめコース。
付き合ってくれたつばささん、ありがとう!!


せっかくなので、
なみちゃんの○分クッキング~。といきます。


ちゃんちゃらちゃかちゃかちゃっちゃっちゃ~♪(以下略)



はーい。
まず、パレスチナにもある「ホンモス」「ムハッラル」「ムタッバル」です。


(左から、ホンモス、ムハッラル、ムタッバル)


ホンモス(Hommos)はヒヨコ豆のこと。
ゴマペーストである「タヒーナ」やニンニクなど、
お店によってブレンドが違います。
(私はエルサレムにある某ホンモス専門店が
 世界で一番だと信じて疑いません(笑)。)
ちなみにイスラエルにもあるこの前菜、
ヘブライ語ではフムス(khumus)と発音するそうです。
「豆?! お前は本当に豆なのか?!?!」という味がします。

ムハッラル(Mkhallal)は「酢漬け」みたいな意味ですが、
つまりピクルスのこと。
塩と水、レモン汁などを合わせた液にキュウリ等をつけこんだものです。
パレスチナ人は大体、コーラの1.5L空きペットボトルに
小さめキュウリをこれでもかという位に詰め込んで作ります。
「コカコーラ」とラベルの貼られたペットボトルにキュウリが詰まっている
様は少々芸術的といいますか…シュールな気もしなくもなく、
「これ、食べられるの?」といった感じですが、
ピクルス嫌いな人でも食えるようなマイルドなしょっぱさです。

ムタッバル(Mtabbal)はナスを叩いたペースト。
こいつの作り方、私は知りません。
でも同じくナスで出来てるババガヌージュより好き。
「お前にこんな味が出せたのか!! 見直したぞナス!!!」
というクリーミーさです。
だれか、作り方をコメントで教えて下さい(笑)。


とまぁ、これら前菜はピタパンで包んで食べます。
ピタをちぎって開き、ちょちょいっとソースを間にはさんで食べる、みたいな。

ピタパン。
2007年、パレスチナの西岸内では
焼きたて5枚1シェケル(約25円)で買えた(ビールゼイト村価格ですが)。




それから、パセリのみじん切りサラダ「タッブーレ」。(tabbooleh)


日本の縮れパセリではなく、
イタリアンパセリという種類のものを使います。葉が平べったい。
イタリアンパセリ、トマト等を刻んで混ぜ、
レモン汁・塩・オリーブオイルで和えたもの。
ナーブルスの友人宅で
お客さんが来たときのお昼ご飯に作ってたのを手伝った時は、
タマネギやレタス、キュウリも超細かくして入れてた記憶が。
(上に乗ってるのはトマトの皮をむいたものです)

そういえば留学する時、
ママさんには「生野菜は食べるんじゃないよ!!」と心配され、
ピ○トロドレッシングを持たされそうになった記憶があります。
親心というものは時に細やか過ぎて恐ろしい。

ちなみに現地では、
サラダは基本的に塩、オリーブオイル、レモン汁で味付けします。
ごめんママさん、娘は初日から生野菜を食っていたよ。



それから食後にコーヒー「アフエ」。(ahwe、方言ではQはハムザ音になる)



超細かく挽いたコーヒーとカルダモンを、
一人スプーン山盛り一杯分ずつくらいお湯に入れて、
粉が沈まないように、かき混ぜながら何度もゆっくり沸かします。
砂糖は最初に入れておくのがコツみたい。

日本ではこの細かさにコーヒー豆を挽いてくれるお店は無さそう。
エルサレムで買うなら、
ダマスカスゲートを入ってすぐ目の前のV字路を
右手に入ったすぐ右にあるお店がオススメな並木です。




とりあえず、久々にホンモスが食えて満足です!!
以上、並木のテキトーすぎる○分クッキングでした。

2009年10月20日火曜日

ヘブロン特産品:グラス、陶器















ヨルダン川西岸地区きっての工業都市ヘブロン。


ヘブロン協定関連の
トラブルが絶えない大都市ですが、
私がパレスチナで最も好きな工芸品は、
このヘブロン発の陶器です。


上の写真は、鍋敷きに加工してもらった
ヘブロンのタイル。
トリノに住む彼のお母さん用(左)と、
私の母用(右、生命の樹をかたどっています)のセットです。




タイルにシルクスクリーンで模様の輪郭を焼きつけ、
色は職人さんが手作業で乗せていきます。



上の写真は絵付け歴ン十年のおやじ。

それを乾かしてから窯に入れ、冷めるのを待てば完成。
(ちなみに上記左手前の紫色の釉薬が、
 焼き上げると深いキレイな紺色になります)



私が訪ねたこの窯元(?)のおやじさんは、
こう言います。


「第二次インティファーダの前は、
 毎日観光バスが何台もヘブロンに来ていたものだよ。
 それこそ、20台も30台もさ。観光客だよ。
 彼らがヘブロングラスを買ってくれたんだ。

 今では壁や情勢の悪化のせいで、商売あがったりさ。
 何とか、エルサレムで売ってもらったり、
 フランスやドイツのフェアトレード団体に卸したりしてるんだ。」



ちなみに、注文すればオリジナル陶器も作ってくれるそうです。
私は自分の家の表札をココに注文して作ってもらうのが夢。

お店のカードを持っていたはずなのですが
部屋のどこかに埋まっているので、
掘り起こし次第またご報告します。

2009年10月19日月曜日

アーティチョークにまつわるトリビア

アラビア語を5年間学ぶ中で
一番「なるほどっっっ!」と思った瞬間、
それはヨルダン川西岸地区のナーブルスでやってきました。


西洋料理に使われる食材アーティチョーク。
「なんだその粉っぽそうな食材は」と思われるかもしれませんが、
キク科の植物のつぼみ部分です。

困ったときのウィキペディア。
とげとげしていて食べ辛そうです。食感は芋っぽいらしい。




さてこのアーティチョーク、私は食べたことないのですが、
パレスチナではフェンネルなどのハーブと共に
普通に市場に並んでいます。


ナーブルスに泊まり込んでいた頃、
市場を一緒に歩いていた友人に
「これ、アラビア語でなんていうの」と聞いたところ、
返ってきた言葉は

「アルディショーケ」
(arDi shooke)


adDi=地面の、土地の
shooke=トゲ、フォーク


という意味なので、
「おぉ!地面のトゲ!!」 と納得がいくのであります。

そうかー。アーティチョークはアラビア語出身の単語だったのかー。
そうだよねー。やっぱトゲトゲしてるもんねー。
こういう「腑に落ちた」感覚がやめられないので
語学が好きな私であります。



が、しかし!
アーティチョークの語源はアラビア語と、思って早3年が過ぎた今日。
私は知ってしまったのでした。


「アルディーショーケ」が当て字であることを。。。。。。

※「民間語源」と呼ぶらしい




つまり、日本人が「カステラ」を「家主貞良」と書き、
「カッパ」を「合羽」と書くが如く、
アラブ人は「Artichoke」を「arDi shooke」と書いて読むのであります。


がちょーん。
そんなことに私は5年で一番の納得的瞬間を使ってしまったのかー。



まぁでも「コカコーラ」を語呂合わせと意味合わせで「可口可楽」と書く中国語と
同じような感覚がアラビア語に存在すると思わなかったので、
それはそれで新発見だった並木でした。



他にもパレスチナ方言には外国語と同じ言葉がいっぱいあるのですが、
アラビア語がニワトリで外国語の方が卵なのか、
外国語がニワトリでアラビア語の方が卵なのか、
パッと区別がつかない並木はまだまだヒヨっ子なのであります。
「スシュワール」とかはさすがにフランス語だって分かるけどねぇ。

2009年10月18日日曜日

男に迫られたら「アェーブ」と言うのだ!

2006年、ナミキが人生で二回目にパレスチナへ渡航した時。(留学です)
約10ヶ月の滞在で、当初女子大生だった私が一番困ったのは、


ナンパ(と求婚)


である!!(どーん)←効果音つけてください


パレスチナを歩いていて通りすがりに尻を触る男から、
家までつけてくる男、家に押し入ってくる男、
握手と見せかけて胸を掴んでくる男など、
色々いたのであります。
(まぁ私のガードが甘いからなんですけど)


一番ひどかったのは、薬局で血圧を測ってもらったときのこと。
店に誰もいなかったため、
血圧を測ってくれた店主のおやじが

「こっちの方はどうだい? ん~?」


と言いながら、
私のTシャツをガバッと引っ張り、
胸を素手でわし掴みしたのでありました。



こらお前! 無料でそんなこと出来ると思ってんじゃねーぞ!!(違)


もちろんそんなこと、地元の娘にするわけがない。
外国人の小娘だと思って、何でも出来ると勘違いしているオヤジです。


私の兄的隣人ナーヘルは
「そんなこと、パレスチナ人の娘にしたら
 一族郎党が押し掛けてきて殺されるんだぞ」
と言って笑っていましたので、
要らんトラブルに巻き込まれたくない方はこの言葉をどうぞ。



「アェーブ」(Aeeb)



「恥」という意味のアラビア語です。
現地の宗教・慣習的に「恥ずかしいこと」とされる行為を
諌めるときに使います~。



例えば、訪問先で騒ぎすぎる子どもに、お母さんが一言「アェーブ」。
婚前交渉のことを「アェーブ」。
髪を出してムスリムの女の子が歩くときに「アェーブ」。



胸を掴むなんざ
「恥」を通り越して「お前地獄に堕ちろ」的な行為ですが、
男が半径30cm以上近づいてきて肌に触れようとする時点で
現地の慣習には合っていません。
(現地の女の子は自己紹介の時すら
 現地の異性とは握手せず、胸に手を当てて挨拶します。かわいい。)

サラっと「アェーブ」と言って乗り切ってくださいね~。
ちなみにごくたまに、男性も男性に誘われる場合があるらしいので
興味がない方はご注意を。

パレスチナ・イスラエル情報記録を始めます♪

2006年夏~2007年秋、
私が留学中に見てきたパレスチナ・イスラエルを
キーワードをネタに書き溜めていこうと思います~。

留学中に書いてたブログはこちら。(現在進行中)
なみちゃんの「自分事」日記。
(以前は「女子大生なみちゃんのフィラスティーン通信。」でした)